2014 上半期ベスト10 〈うるせいやつら〉


この度、ラジオ『うるせいやつら』Episode 14 「2014年上半期映画ベスト5」の収録に参加させていただきました。
二人の場慣れ感、流暢な会話に圧倒され、さらに追い打ちをかけるように酔いと疲れでこの二時間の記憶が殆ど無い。
これはまずい・・。特に、思い入れのある第1位の作品に関してフマ君に丸めこまれ何も話して無いんじゃないか。
このままでは罵倒されただけの作品になってしまう。
それは悔しい・・。と勝手にこの収録用に用意したベスト10をまとめました。
少しでも誤解(笑)が解ければ幸いです。
若い世代が見て、感じて、話すという行為がいかに重要か。
意見が違ったっていい、自分はどう感じたのか。
そんな簡単なことを忘れてしまった僕ら世代に是非、ラジオ『うるせいやつら』を聴いてほしいです。
僕がこんなこと言うのも何ですが、皆さんに少しずつでも広まっていけばいいなあなんて思っています。
今回の回は自分が参加しているのでともかく、通勤時間なんかにEpisode 1から聴いてみてください。
気楽に聴けて、内容は幅広いのに回によって波があって面白いです(笑)

ラジオ『うるせいやつら』
URL:uruseeyatura.com
BLOG:
twitter:@urusee_radio

第10位 『GF*BF』



傑作でした。
交錯する思い、畳み掛ける展開、全てはあの時の、仲間たちとの...。
みたいな素晴らしい青春映画。
厳戒令下の台湾情勢、学生運動、シュプレヒコール。
そこに、学生時代の反発、恋愛模様がうまく絡み合う。
「民主」と「自由」にゆれる感情が描かれ、
27年の時間経過、省略が絶妙で、だからこそいきるファーストシーン。
二つの濡れ場が映される場面の編集には脱帽した。
些細な目使い、手の動きだけで彼らの葛藤が取るように分かる。
んー、いいですねこういう主体性。
台湾だからこそもつ作品のパワーが光った作品。

2012/ヤン・ヤーチェ

第9位 『光にふれる』



盲目の少年が新たな日々に足を踏み出し、そこで出会う仲間たちと彼の唯一の世界である聴覚で少女に惹かれ恋をする。その背景には揺るぎない家族の存在があり物語は交差していく。
大学生のキャラ設定や日々成長していく過程はかなりベタに描かれているのだが、そこで本当に成長していくのは主人公ではなく周りの存在というところにグッとくる。
テレビでの野球観戦のシーン、生まれて初めて知るダンスのシーンがとにかく好き。
それぞれに好きなシーンがある、そういう映画。
そして、自分に重なるハットするシーンなんかもあるかもしれない。

こんなにいいシーンがたくさんあっても彼には見えていない。
悲しくなる現実に、泣かそうという演出ではないから泣けてくる。
暗闇のシーンでも、彼は少しずつ世界が広がり、光にふれていく。

2012/チャン・ロンジー

第8位 『ラッシュ プライドと友情』



邦題通り、プライド、友情が呼応するように宿命関係が描かれた男たちのアメリカ映画。面白い、傑作!
ダニエル・ブルーリュの芝居に痺れるよ。
僕自身、小学生の時からF1中継をかぶりつくように観ていたシューマッハ、ライコネン世代。その前のセナ時代より一つ前のニキ・ラウダ、ジェームス・ハントのF1ブームの1976年が舞台の今作。
男は女を愛する。それ以上に男は車を愛すの台詞が物語るようにライバル関係を描くロン・ハワード演出が絶品。
走行シーンの撮影、レース結果を流れるように描くシナリオ、交錯する2人の演技、エンジンの稼働を見せる撮影、大事故から這い上がろうとする展開にもう言葉が出ない。
ヘルメットを懸命に震えながらかぶるところでは僕が一番震えて観ていた、そんな気がする。
こういう映画こそ、6割が映画館に一年間を通して一度も足を運ばない日本の観客に観て欲しい。
観にいく理由は何でもいい。
デートでも、ヘムズワース目当てでも、KinKi Kids目当てでも。
とにかく素晴らしかった。

人生にはライバルが必要だ。
「偉大な者というのは、凡人が味方から得るものよりも、遥かに多くのことを敵から得る者のことをいう」

豪華スタッフにキャスト。
これだけでも観る価値あり。

2013/ロン・ハワード

第7位 『LIFE!』



ベン・スティラー監督・主演でジェームズ・サーバーの小説を映画化した、1947年ノーマン・Z・マクロード監督『虹を掴む男』のリメイク作品。ファンタジーを超越した壮大な妄想を力に現実の旅に出る。その夢のような大冒険は人生を豊かにしていく。ベン・スティラー最高の新境地へ。

想像の世界は夢と希望に満ち、愛に包まれていた。様々な仕掛けのメタファーを一つ一つ紡ぎ取るだけで観客は映画の主人公に。彼の心はヒーローの心臓で脈打つ。その供給のスイッチは僕自身が持っていた。ヒロイックな物語にユーモラスな描き方のバランスも流石で、映画の旅は一瞬だった。

妄想と現実の境は最早なく、切り開くのはトム少佐でありそれは自身自身。そんなメッセージは強く打ち出され、ありきたりな言葉だが、感動した。大好きなボウイの「Space Oddity」がキーアイテムとして使われていて、流れる度に感情に語りかけられ、涙が溢れた。

この作品の素晴らしいところは、予告で大きく取り上げられる妄想癖に重きを置いていないこと。重要なのは、現実をどう生きるか。夢は大切だけど、叶えるためにどう現実で行動するかの問い。アクションを起こそうと鼓舞させるような演出と台詞たち。観て元気になる映画って素敵ですね。

パロディと思われるシーンも沢山あり、様々な映画を思い浮かべました。ラスト前に、冒頭の言葉をそのまま上司に突き返すシーンは痛快でその後のスローガンの掛け合いには笑った。LIFE誌最終号のラスト、ネガの真相、幽霊ネコ。「美しいものは目立つことを嫌う」相応しい結末。

2013/ベン・スティラー

第6位 『ダラス・バイヤーズ・クラブ




アカデミー賞6部門ノミネート、3部門受賞し、ジャン=マルク・ヴァレがエイズ渦と呼ばれた80年代に生きたウッドルーフの半生を描く。
とにかく受賞した、マシューマコノヒー、ジャレッドレト、メイクのロビン・マシューズが凄い。それだけを観に行くだけでも価値がある。

今作の魅力は、マシューが演じたウッドルーフがクソ人間であるということ。そこに人物像を見出し、結果的に彼がたまらない存在として現れていくという構造にグッとくる。

ディカプリオやブルースダーンに勝ったマシューも、
ジョナヒルに勝ったジャレッドレトも痩せた姿の評価が大きく取りざたされるが、彼らの演技はそれを土壌とし本当に素晴らしく、美しかった。

エイズによってもたらされた余命30日をどう生きたかという話が主題ではなく、立ち向かった先に起こる彼の人生賛歌と心情の変化をメインに据えた脚本の技が光っている。
あの展開の上手さには唸ったし、停滞していた彼の半生は、エイズが蝕んでいくことはむしろ描かれない。

エイズが彼を生かしていく。

それは矛盾の肯定でありますが死期迫る男は、余命宣告が彼の人生の始まりの合図。
とても不思議な構造に胸打たれました。

様々なメタファーも、浮かぶ台詞の数々も余韻の波に拍車をかける。

「国民が選択肢を見つけるのが怖いんだろ!」
とまさに現代に投げかけたかのような叫び。

「今は生きているのに必死で、生きている気がしない。生きている意味がないよ」
という台詞にぼくの興奮はピークに達し、ここから僕は完全に映画の住人でした。

こういった素敵な映画的映像演出に溢れているのです。

終盤のこちらを見つめるピエロ。
あれにどれだけの問いと意味があったかは分からないけれど、
客観視した滑稽さの投影のように感じました。
『楽隊のうさぎ』の語られないうさぎのような。

対立していたウッドルーフとレイヨンはエイズによって共鳴し合い、エイズによって絆を強くし、エイズとともに生きた。
レイヨンの死は、伏線の回収にもなるのだが、僕自身も友人を失ったかのような喪失感に苛まれた。
彼の生きた人生はウッドルーフの道標となり希望の轍となって顕在化する。

冒頭とラストはロデオという不安定な上に成り立つ。

人生はどんなに大きな揺さぶりがあろうとも、必死に振り落とされないように歯を食いしばる。
それはまさにこのロデオであり、握り締める手綱はレイヨンであった。
その視線の変化を自然とやってのける監督の演出に賛辞を贈ります。

もったいなかったのは、
登場する東京の映像。
あの80年代にはそぐわない渋谷スクランブルと新宿東南口の通り。
毎日あの付近を通り働く僕としては違和感でしかない。
シネマカリテで観ていた観客は「そこじゃん!」となっただろうな。

2013/ジャン=マルク・ヴァレ

第5位 『アデル ブルーは熱い色』



去年、カンヌを包み込んだ問題作。
パルムドールを監督、キャストに捧げた本作。
監督自身がアデルを尊敬し、アデルのこの先がどうなるか僕も教えて欲しいという言葉をきき、あぁそういうことかと腑に落ちた。

好きなシーンを一つ。
アデルからエマが去り仕事で訪れた海辺。
5分だけと時間をもらいアデルは海に飛び込む。
最初は引きでアデルの全身を映す。
パッとカメラが切り替わるとアデルの頭のすぐ上から彼女を映す。
波に流されながらも、アデルは光が射し込む海にゆっくりと溶けていく。
そう、青の時代を失ったアデルが青の瞬間に溶けていく。
その瞬間、僕の中で時が止まった。

美しかった。

何度でもアデルと呼びかけたくなる。

アートでも日常でもドキュメントであり、
そのどれでもないような。

エマ、あなたの演技は素晴らしかった。
アデル、あなたの演技は素晴らしかった。

どちらの気持ちも痛いほど分かる。
分かった気になっているだけかもしれない。

2013/アブデラティフ・ケシシュ

第4位 『ウルフ・オブ・ウォールストリート』



スコセッシ×ディカプリオの鉄板コンビは長尺の180分。ファックを500回以上飛び交うとんでもないコメディー映画。
とにかくディカプリオが凄い。最近は美男子役ではなく変人路線に活路を見出したように圧巻の演技力。
これでオスカーをついに、、、というところで冒頭でも共演するマコノヒーがまあ凄い。
出演時間僅かながら圧倒な存在感。
今作はただ、お祭り騒ぎをしているだけでなく、シナリオと展開力が、ディテールのこだわりがあり、表面的な笑いの裏に楽しめるところがあって発見の連続。長さは全く気にならず楽しめた。
スコセッシに、脱帽、嫉妬!

2013/マーティン・スコセッシ

第3位 『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』



アレクサンダー・ペインの最高傑作!
映画と観客、父(ブルース・ダーン)と息子(ウィル・フォーテ)のふたつの心が確かにつながった。
スクリーンと僕が結びついた時、世代交代の幕開けと青春に決着がついた。

2013/アレクサンダー・ペイン

第2位 『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』



NY、60年代、フォークシンガー、腐敗、混沌。
それは、音楽=猫。
全てはラストカットに込めらている。
その象徴がポスターで、物語っている。
舞台上がりの役者たち。
裏付けされた実力は圧巻。
彼らのための映画であり、コーエン兄弟新たなステージへ。

ライブシーンのカットの繋ぎ方。
あのカットが最後のボブ・ディランらしき若者の登場シーンの最大伏線になり、
回り続ける音楽と人生のループに繋がるカタルシスになる。
注目すべきはポスター。
ボブ・ディラン...。
トラヴィス...。

2013/コーエン兄弟

第1位 『ある過去の行方』



いつもは鑑賞中に映画とリンクしながら思いが絡み合うように言葉となって整理していくのだけれど、
今作はすぐに出てこない。『別離』同様、解けていくような脚本と待ち受けているラストシーンの衝撃。映画を観ているのだと忘れるくらいのドキュメント。傑作。

現実に引き戻されるラスト、あれを美しいと呼ぶのだろうか。誰もが共感出来る要素を散りばめつつ、到底届きそうもない情緒的な息苦しさがある。あの生乾きなペンキを雨粒がさらっていくように、何処かに忘れてきた記憶は漂い、生活の中に浮遊しながら交錯した感情が掻き消していく。

脚本が素晴らしい監督として定評があるが、演出力に裏打ちされたものだと思います。
冒頭の空港で、ガラス越しの彼らは意思疎通が取れていない。
ここですでに彼らの関係を明らかにしている。
しかし、ここでは元奥さんは微笑を浮かべます。
そして、毎作特徴的なタイトルイン。
今回は車のワイパーでしたね。
過去という文字を少しずつ、少しずつ消して行きました。
こういう映画なのだ、と。冒頭だけでこれだけ示唆出来る。
シーンの意味、裏側がいちいち奥行きを感じます。
例えばペンキ。
家はペンキを塗り替えてましたね。
もっと言えば、ペンキが付着して離れない。まだ、乾いてはいないのです。
これは過去の塗り替えであり、修復を自ら断ち切っているが、気持ちはまだ残っているメタファーのように感じます。
まだ繋がります。新しい男は目がかぶれています。理由は語られませんが、男が塗るペンキによってかぶれていたのです。
そもそも、この映画は理由や発端が一切わからない、語られません。
それをあえてしている。画面の画だけで勝負している。僕らに投げかけ、委ねられているのだろうと。
消えかけた電気。
電球の交換、2人で選び揺れるシャンデリア、穴を開け交換する新しい男。
これも同様です。
電球交換の後、この映画では違和感のようにしか感じない長い長いキッチンでの沈黙のシーンがあります。
新しい男と元旦那。
耐えきれなくなった男たちは、離れに向かう、電気を消しに行く。
その動線は2人の心情を語ってくれます。

そして、この映画で最も特徴的なのは、天候と登場人物の共通した行動です。
一つ。
いつも、作為的に雨が降っています。
雨は障害の象徴でありまとわりつきます。彼らの行く手をことごとく阻む。
それでも、雨は止むもの。
意味を持ったどんよりした空だったのだろうと思います。
二つ。
彼らは目的のためにアクションを起こしますが、必ず誰もが一度は引き返します。
あちらに向かって、こちらに戻る。
こちらに戻って、あちらに向かう。
全編通してこの演出を貫いています。
僕らの行動にそこまでの明確なものはない、迷いながらも進む。
そんなものを表現しているのではないでしょうか。
一つ一つに意味があるようで、画面が移ろうだけで面白い映画です。

最後の方でラジコンが飛ばないのもこれからを示唆しているかもしれません。
ラスト、涙を流したのは観客にしかわからないし、手を握ったのか、握っていたのかは分かりません。
毎回そうですが、理由も分からなければ、結末も分からないのです。
そしてエンドロール。
ここで始めて音楽が流れ僕らはホッとします。
映画だった、映画でよかったと。
でも本当の意味で解放はされていない。
観終わってからやっとこの映画が始まるような、地続きのようです。
苦しいけど、人生そんなもんだよ。
けど、人生そんなことないよ。
色々思わせてくれます。
こんなに情報はくれるのに、
欲しいものは何も教えてくれない。
少し憎いですが、彼のそのどこまでも徹底する力と才能に感服です。

子供は全て知っている演出。
子供らに監督が背負う社会的責任や環境を乗せているように見え、そもそも持ち合わせている感覚が違うステージなのかもしれない。

重ね重ねですが、
スガー・ファルハディ監督作は、観客だけが物語の道筋を知っていて、主人公がその中で答えを探して行く。だがその結末は誰も知らない。

故のサスペンスだが、その過程が余りにも心情とリンクするため衝撃を受ける。

筋書きが有るようで無い人間ドラマ。

答えもまた有るようで無いリアルな人生のように。


2013/アスガー・ファルハディ


番外

アベ君 第3位 『それでも夜は明ける』




今年のアカデミー作品賞受賞作品。
スティーブ・マックイーン3作目にしてこの境地に。
物語は、題名の通り明瞭。
構造も分かりやすく単調なのだが、一方で物語は事実に基づきながらとても奇妙な創りと孕む感情は複雑だった。
観おわった直後の率直な感想としては、内容は全く別として、アカデミー会員を揺さぶり、好まれ、作品賞取るんだろうなーと思ったが、何故この作品が受賞したか理解出来なかった。
これ、そんな作品か?という具合に。
賛否が早くも分かれているが、僕は完全に否定派。

前作『SHAME』で圧倒的な演出力を見せつけたスティーブ・マックイーンは、今作でもその才能をいかんなく発揮している。
共通しているのは、露呈してはいけない或は出来ない、個々の、歴史の「恥部」を物語を通じて明らかに隠しながら露呈させていく点。
逆接のテーマが浮き彫りになる。
だから奇妙であり、演出の上手さなのだ。

アメリカは明らかに今回のような奴隷制のテーマを避けていた。
ここに挑戦したこと、成し遂げたことに賞賛が贈られていることは理解出来るし、これからやらなければいけないこと。
だけど、映画、特にエンターテイメントとしてこれは全く別で、今作にはそれを感じられなかった。

逆に、天晴れなところは
冒頭の説明しない奴隷の虐げられている映像が後に展開し繋がっていくところは気持ちが良かった。

そして、何度かある長回しのショットは素晴らしかった。
特質して印象に残ったのは、やはり主人公が立ち向かった結果、長時間首を吊られたシーンは歴史に残るのではないだろうか。
本当にそこだけ見るだけでも価値はあると思う。

劇中に登場する、奴隷達が奏でる魂の叫びとでも呼ぶにふさわしい唄と詩は、今でも僕を掴んで離さない。
エンドロールで再び僕は鳥肌がたち、映画の余韻の中に足を踏み入れざるを得なかった。
実際、あの歌声が今でも頭をよぎる。

ラストシーンに納得がいけば良い感想になったのかもしれない。
あそこは、眼で語り、映像だけで問い掛けて欲しかった。
あそこに疑問を持った人はどれだけいるのかな。
それにしてはあっさりしていて、無駄な会話に感情は失速していった。

いかにして翻弄され苦渋を舐め、12年間どのように生きたかは物語を見れば明らかだが、それに反して苦しさは横を通り過ぎ、感情はスクリーンの中に浮遊したままであった。

2013/スティーブ・マックイーン


アベ君 第1位 『her 世界でひとつの彼女』



ほんの少しだけ未来の世界だから、この出逢いは優しい光に包まれる愛のかたち。

この映画が素晴らしいのは、相手不在だからこそ成立するということ。
プログラムの結集であり、肉体が存在しない。
ひとりで語られる恋愛模様。
どこか感じる違和感…。

ファーストシーンで、セオドアは何か違和感のある愛の言葉を語る。
印刷と同時にこれは近未来なんだと思える。
セオドアは手紙の代筆という少し古臭いが素敵な職業に就ている。
誰からも評価され賞賛される彼の手紙。
それでも、彼はキャサリンにサマンサを否定され
「ただの手紙、単なる人の手紙」
と自分のどうしようもない気持ちを嘆きます。
こんなもの、と彼は分からなくなってしまう。

セオドアはサマンサに愛を求めながら、元妻のキャサリンを引きずり、エイミーを拠り所にしている。
サマンサとは肉体があることの差で衝突し、キャサリンとは愛のかたちで衝突する。
けれど、エイミーだけはセオドアをいつも理解してくれている。
あなたがいいなら、それがいいのと。
これはラストに繋がるシーンだったのかと今は思います。

サマンサが自分のものだけでなく、皆のサマンサだと知ったセオドア。
それは時代の進化に於いて必然でした。
サマンサは、
「進化するにつれて、どうしようもなかったの。心は四角い箱じゃない、ふくらんでしまったの。
そして、
「わたしはあなたのもので、みんなのもの。だけど、あなたの愛は変わらない」とセオドアに打ち明ける。

OSの切なさと限界が見えたシーンでした。

最後に、
「私は、無限の空間、抽象の世界にいる。どんなに望んでも、あなたのそばでは住めないの。でもね、あなたがこちらを覗いたら、私を探して。私は愛を知ったの」

こんなことを言って彼女は去りました。


肉体をなくして語られない愛をどうやって表現するか。
この映画はそれをまさに体現した。

好きなシーンは沢山ある。

ひとつ挙げるならば
性の混じり合いを、
少しずつブラックアウトし、彼らの潜在意識の中で体感する。
あのシーンはたまらない究極の愛に思えた。
ああ、代理セックスのシーンも良かったなあ。

スカーレットヨハンソンの息遣い、
光を計算された撮影術、
近未来を表現するための美術、
文句無しの音楽、
どれもどれも美しかった。

ホアキンの衣装が何処と無くノスタルジーで、ハイウエストのズボラパンツに彼はいつもシャツを着る。
そのシャツの色が彼の心情描写をしている気がして一瞬一瞬の彼の表情に胸打たれた。

僕らが、(A.I・愛)を通してふれた世界は、悲しみにくれた過去を想い、見えない未来に希望を信じた、誰もが主観的に重ねてしまうほどリアルな人間性に満ちている。

求めた暗闇のあなた。
勇気を出して引き伸ばした心(容量)は二人で一歩ずつ歩み、寄り添いながら膨らんだ愛は最大の愛(アップグレード)に到達する。
その先に待っていたのはそれぞれの道。人間はどんなに時代が変化しても変わらないものがある。
それは唯一「愛」だ。
教えてくれたのは皮肉にも愛したOSでした。
インストール・アンインストールの内側で、
時代のシステムの進化の表面で彼女は消えてしまった。
避けては通れない別れだった。

絶対なものなんて無い。
そんなものは絶対無い。
映画は「絶対の愛」を紡いだ僕らの物語でした。

2013/スパイク・ジョーンズ

問題作 『渇き。』



鬼才中島哲也監督最新作。
低迷する日本映画界と言われる昨今、果たしてそれは作り手の能力やセンスの低下でしょうか?
寧ろ技術は進み、新しい事も良い意味の古臭さも踏襲され益々映画は面白くなっている、その可能性に満ち溢れていると思います。
では、何故そう嘆かれるのでしょうか?
それは、作り手ではなく受け手が真に映画と向き合っていないからだと感じます。
映画は、時代を内包したあらゆる表現方法の終着駅だと僕は思います。
どのような映画を求めるか、それをどう評価するかの受け手の才の欠落がこの空気を作り出している気がしてなりません。

僕個人の意見ですが、
最近の映画は作り手(監督・企画)の才能が無いから面白い映画が無い
ではなく、
最近の映画は受け手(時代・風潮)の才能が無いからそれに応じた映画を作らなければお客が入らないとなってしまっている。

なので、面白い映画や闘っている映画には興業がヒットしてもらわなければならない。
だからこそ、賛否両論と謳われる『渇き。』を是非劇場まで足を運んでもらって、しっかりと吟味して欲しいと思います。

前置きはこのくらいで、
『渇き。』を観てきました。

本作は「このミス」で大賞受賞した小説の映画化。
はっきりと、挑戦したなと思う。

前作の『告白』との二部作とも取れる
内容で、
余りにも早いカット割り、インサートカットやフラッシュカットの多用が過去作から更に増していた。
話だけを取り出せば暗い陰湿の映画であるが、
ポップなテンポとウエスタン風のテロップなどでエンタメ作品に仕上がっていた。
特に、
画作りを際立たせる散りばめられた音楽とクローズアップ主体の撮影とそのライティング。
音楽はテンポに合わせ、細かく編集されながら、今までに無いほどの長尺を激しく移る映像に見事にはめ込んでいた。
撮影は寄りの映像、顔のアップの連続で臨場感と緊張感をいっぺんに味わえたし、そのことで損なわれる背景が無いことでストーリーの理解度が低下してしまうところを、場面ごと、時代ごとで微妙に変化を付けながらも一体性があるライティングが補うという素晴らしいプロの仕事でした。

そして世間的には新生のごとく現れた小松菜奈の起用と取り巻く役者達。
彼女は中心に居ながら存在しない。
一種、マクガフィンのような物。
その彼女を、美しく高貴な真っ直ぐなものとしながら周りが狂っていく。
その様が、リアルなど一切ない演劇のような過剰すぎる演出がヒロインの存在を際立たさる。
居るんだけど居ない、悪魔のような天使、狂っているけど愛おしい、そう思わせてくれる。

故の歪んだ到達点であり公約数が
「愛してる」と「ぶっ殺す」の呼応なんだと思う。

物語は、
現代と三年前が複雑に展開される。
カットバックでタイムスリップや感情変化でフラッシュバックもする。
そして、
悲しき狂気の象徴
「藤島(役所広司)」が過去の償いのもと加奈子を探しに遡る物語と
歓びの狂気の象徴
「ボク(清水尋也」が美しい愛を求め加奈子に思いを馳せ時間を追う物語がリンクするためさらにゲシュタルト崩壊のような複雑性を増す。
テンポが早いだけに物凄い情報を与えられる。

その中で、この物語の真の意味を観客に丸投げするように終息に向かうため、オチと関係性の希薄さは停滞を生んだ気がしてしまったのは残念でした。

橋本愛からは魂の叫びを感じたし、
國村隼の一つ一つのセリフや振る舞いが伏線になっているところは今じわじわと凄みを感じる。
そして、息抜きのように存在していた妻夫木聡の演技が、役所広司との対比で渇望の象徴になっている感じが、全体の凄みをさらに高めている。
また、
小道具やセットのディテールの配慮が
暴力と血=愛という構造をより誠実に感じさせる。

見つかりもしない、ありもしない雪の中に希望を見出すラスト、
「あいつは生きている、あいつは俺だ。見つけて、ちゃんとぶっ殺す」
はあまりにも切ない叫び。
「渇き」を潤す唯一、それはやはり愛。
 
物語はこれからも続くだろう。
少し、意味を含ませ過ぎた、狙いをダサく感じてしまう部分はあるけれど、
地続きの心の「渇き」に「。」が終止符を打ったのだろうか。
僕はそれをエンディングの
「Everybody Loves Somebody」がこの混沌に決着を付けてくれた気がした。

ただ一つ、これだけは、これだけは吐き出したい。悔しいから。
全編を通して抱いてしまう、もやもや、腑に落ちないところは、
観客が頭の中で膨らませるであろう余白、つまり感想を明らかに強要していたということ。
お前らこういうの好きだろ?
鬱屈とした日々送ってるんだろ?
お洒落なこの感じ、これ欲しいんだろ?
って具合に。
舐めらたよね、僕ら。
それは絶対に違う。
狙いかもしれないが、インサートに逃げたようなカット。
無駄なカットなんて一つもないんだ。
そういうの、意外とこっちは感じますよ?って大合唱したい気持ちを胸にしまい、良くわからない感情と共に劇場を後にした。

2014/中島哲也

話題作


1館上映から席巻。
1億円をとうに越え、100館以上まで拡大した感動作。

ゲイのカップルが
麻薬常習者の隣人が育児放棄したダウン症の男の仮親申請のために奔走する人間ドラマ。

僕はこの映画の内容もそうだが、それよりも、この映画で泣いた、感動と感想を抱くことが当たり前になっていることがとても怖いです。

仮親になるためのキッカケが簡単に済まされ、こちらの感情の高ぶりを途中で遮るように一旦家族として落ち着いてしまう。
上映時間が90分程なので、構成としてはそれで良かったのかもしれない。
けれど、結果よりもそのプロセスに僕は共感し、そこからの展開を期待してしまうので、
その段階をあっさりと良しとされてしまった。
そんな簡単でいいの?
そもそも隣人の男の子、まして何も知らないダウン症の男の子をそんなに?
と。
執着するのは分かるし、良い人だなとはなるが、
何故そうなったのかの提示が欲しい。
親になるという覚悟、そこをないがしろにしてはいけないと思ったし、
そんな表面的な物語に泣けるのかと。
薄情なのは僕の方なのか。
果たしてそうなのか。
疑問は募るばかりだった。

それでも良かったところも幾つかあって、
何故そんな情が湧いたのか。
その彼の背景、いわゆる人生における過去を一切説明しないので、
想像する余白が生まれその葛藤が観客の感情を揺さぶる。
自分の人生はどうだ、自分ならどうするかなどとリンクする。

彼らのこの姿勢は、やはり性同一性障害であるということに起因すると思う。
この70年代は、ゲイであることが最も生きずらかった時代であろう。
もがき苦しむ人が運動や対立を起こし、より一層反発が生まれていたはずだ。
だからこそ、ゲイのシンガーはダウン症の男の子を一瞬で抱擁したのであろうか。

映すところ、語らないところのバランスは気持ちの良いものがあった。

それでも、泣きポイントの最後の演出で僕は興醒めしてしまって、
その語り口、勿体ないなと思ってしまった。
どうだろうか。

2012/トラビス・ファイン


こんな感じだったでしょうか。
後は本当に何の映画の話をしたか定かではないです笑
楽しい時間をありがとうございました。
僕は今、複製された男とフマ君1位のリアリティのダンスが早く観たいです。
皆さん是非劇場で映画を!